HOME > 2007 > Jun 15

エッセイを書いてみるとわかる

ブログ、始めました


 できれば、有名な教科書(『コトラーのマーケティング入門』など)を一読。そうでもしないと、ブログを書いてもダメなんだろうなと確信した。相手がいるような文章を作るには。

 ブログにエッセイを書いてみる。考えて書く。写真を添えることもある。構成を考え、論理的に書いてみる。でき上がったものは、それなりに根拠のある主張している。文章のプロではないが、救いようの無いものでもない。しかし、プロのようにぐいぐいと引き込まれるものではない。論旨は「読めば」わかる。こういうのが一番危険なタイプなのだ。正論だけど、So What。流し読みですぐに納得できる論旨ならば、わざわざ表明しなくてもよい。誰でも知っているのだから。

 ごく普通の日常を生きて、わざわざ人に伝えることなどそんなにない。想像したところで思いつくあろうか。いやいやその前に、人に伝えたいものとは何か。人って誰だ。親、兄弟、夫婦、友達、同僚、先生、先輩後輩だろうか。要するに、自分と何らかの「関係」がある人に聞いてもらいたい事がある。そういう内容になってしまう。しかし、それは圧倒的多数の関係ない人には受け入れてもらない。関係のない人がどこで何をしようとも関係ないから。ならば、その人の書いたものなどなくてもいい。こうして、意味のないブログのエッセイが大量に生み出されてくる。そして、常識的に考えれば、そんなブログのために時間をとる人はいない。

 関係ない人の目に止まり、さわりだけでも読んでもらうにはどうすればいいか。それは、宣伝。あるいはマーケッティング。そのテーマと完全に重なる。おカネがかかっている商品、場合によっては生き死にまでかかっている「もの」を扱う技術ならば、大勢の人が昔から調整研究実践している。当然、セオリーがある。それは時代によって変化するが、広告代理店の人となれば時代の変化も組み入れた方法を経験を通して持っている人が多くいる。そんなプロに張り合えるような方法を、個人が、ブログ程度の対象のために細々と展開するのは、負け戦である。別に闘う必要はないのだけど。

 正しい主張をしよう。さらば読んでもらえる。そんなわけない。そういうものは決して読まれない。一般向けの「文章の書き方」についての本にはそう書いてある。(例えば、『<不良>のための文章術』)一般の人の文章として一番見かけるのは、新聞や雑誌の読者投稿欄にある正論になる。正論であっても、いや正論であるからこそ価値のある文章にはなりえないというのだ。良い商品は必ず売れるという素朴な町工場の信念は、道徳として間違いではないけれど事実として正しい記述ではない。脱線になるが、NHKの人気番組であったプロジェクトXでは、正しい商品、良い品質の商品が売れないのは社会が間違っているのだというメッセージが含まれているようで、あれは背後に恨み辛みを感じる。だからこそ、そこに「男達のドラマ」という味付けをする必要があるわけである。一種の宗教番組ではないかと思ったことがある。いや、あれは道徳授業と宗教とが混じっていたと今でも信じている。

1秒で読みとばす


 どのようにブログが読まれているかを知れば、それがエッセイをどう書けばいいのかのヒントになる。かなりマニアな情報を続けて出すなどしなければ、見知らぬ人からチェックされることはない。たまにブログが閲覧されたとする。その経路は「検索結果」からジャンプしてくるか、ブログサーチのRSSに引っかかるかである。いずれにせよ、ブログの冒頭の数行を1秒程度で判断される。ならば、論旨を言葉で展開していくタイプのエッセイが読まれる見込みはない。自分だってアルファブロガーのページをチェックするとき、RSSフィードで全部読むか読まないかを判断している。多数のブログ更新情報がリストアップされても、ページを開くのはそのうちの1,2個である。開いたとしてもゆっくり読まない。斜め読みをする。コストがかかっているブログの内容を読むときの自分からしてそんな態度なのだから、自分が書いたものが読まれることを期待するのは筋違いであろう。

 こう考えれば、冒頭の数行には「読んでいただきたい」という気持ちを工夫して表現することになる。目立つ方が良い。ならば、常識とは逆、あるいは、無関係のものを同一と言い切ることが必要だろう。暴露ネタや写真で引っ張れるほど情報ソースを持っていないごく普通の人ならば、そうする必要があるそうだ。といっても、ウソをつく必要はない。わざわざブログに書くのだから、情報として価値があると思っていることがあるはずで、それを冒頭に入れればいい。そして、それを「普通とは違う視点」から表現するのだ。